甘い、甘い、それはまるで、虚像


つくづく男というのは哀しい生き物だとレノは思う。
火の点いていない煙草を口に咥え、ぷらぷらと動かしながらシャワールームを見る。
恋人であるがミッドガルから離れて早一週間。禁欲生活に我慢ができたのは最初の三日間だけで、次の日は自慰行為に耽り、そしてその次の日からの三日間は安酒場で声を掛けてきた女をやっぱり安ホテルに連れ込んでの性欲処理。性行為という名前には程遠い、本当に単なる性欲処理。
(やっぱり、さ。可愛い可愛い恋人相手に酷い事は出来ないだろ、と)
その腕の中で抱いた女は到底の代わりにもなりはしない。善がりながらもらす声も、ナカも。何もかも違うというのに。
女がシャワーを浴びている最中にレノは金をサイドボードにおいてホテルを後にした。
どれだけ抱いても空しさは消えずに、罪悪感と倦怠感だけが身体に残る。
空は白々しい色に染まってきている。夜から朝へ変わる瞬間をレノは久し振りに見た。
唐突に。ズボンの後ろポケットにねじ込んでいた携帯が震えた。どうせ、ルードかツォンあたりだろ、と思いながら着信の相手を見てレノは慌てて通話ボタンを押した。
!?」
『レノ?珍しいわね、こんな時間に起きてる何て……。あ、もしかしてお仕事の最中だった?』
電車に乗っているのだろう。の声と一緒に、ガタタンガタタンと電車の走る音と、時たまブーという音がする。
ID検査のためのブザーの音だと気付くのに、そんなに時間は掛からなかった。
「そんな事、ないぞ、と」
『私ね、後四時間くらいでそっちに戻れそうなの』
「逢いたい…。早く逢いたいぞ、と」
『うん…私も逢いたいよ、レノ…』
「なぁ、迎えに行ってもいいか?」
『それは嬉しいけど…どうしちゃったの?レノ…』
「一刻も早く逢いたい。ただそれだけだぞ、と」
もう一度、最後に到着予定時刻を聞いてレノは電話を切った。
まずは家に戻ろう。そして、さっきの女の香水の残り香と身体に染みこんだ、何かを落とそう。
足早にレノはと一緒に暮らしているマンションへと向かった。
ガチャリと音を立てて鍵が外れ、レノは室内へ乱暴に靴を脱いで上がりこんだ。最初はの私室だった場所に半ば強引に(シェアするという約束で)レノが転がり込んできた。リビングには一つしかなかった椅子が二つになり、一室空室だった部屋に、レノの居場所ができた。の見立てた大き目のベッドが置かれた。クローゼットの中には制服と化した黒スーツが何着か並んでる。それも、が全部クリーニングに出しておいてくれたものだった。
バスルームに入り、浴槽にお湯を貯める。最初はシャワーのつもりだったが何となく全体的にだるくてやめた。
「馬鹿馬鹿しいな、と」
一人で入るには少し広い浴槽に身を沈めて、レノは誰が聞く訳でもなくそう呟く。
さっきまで抱いていた女の顔すら、もう思い出せない。身体中についた無数の傷を、あの女は、何て言ったかも思い出せない。
初めてが見た時のの台詞は思い出せるというのに。

私達を護ってくれた傷何だね。有難う。もう傷つかなくていーんだよ。

忘れたくても忘れられないその言葉は。
きっとレノじゃなきゃ意味成さない言葉だろうから。
ざぶり。と浴槽に頭の先まで全部沈めて、レノは目を閉じた。


駅から少し離れたところに車を停めて、駅から出てくる人の流れをぼんやりと見てはお目当ての人物の姿を探す。
小走りで走ってくる女に目を向け、レノは微笑ましそうに笑った。
「お帰り、と」
「ただいま、レノ。ありがとね、迎えに来てくれて」
持っていったボストンバッグを丁寧に車のトランクに入れ、レノはそのまま助手席のドアを開く。
「会社、行かなくて大丈夫なの?」
「大丈夫だぞ、と。それに、の目に映る最初の男が俺じゃないのはちょっと嫌な気分かも…、と」
酷く歪んだ独占欲だと思う。
世界に神様が本当に居るのなら、彼女と二人っきりの世界を作ってください。
そんな馬鹿馬鹿しい願い事もしたこともある。本気の恋愛ができるなんて思っていなかった。仮初じゃない、一晩限りじゃない、探り合うような不確かな形でも、真剣な恋愛。
「電車の中にいっぱい男性なら居たけど…?」
「んー…意味がわからないならそれでいいや、と」
考えてみれば鈍感だったな、と思い直す。
だけどきっと、こいつが恋愛に関して鈍感じゃなく、敏感だったらもっと苦労させられただろうと思うとある程度鈍感なのも仕方ないんだと思えてくる。変な意味じゃなく、惹きつける魅力のある人物は自分がどれだけ美しいか知っているから、手に負えない。何も判らず、ただ、惹きつける魅力がある人物は手折られないように注意するだけの注意力もなく。あの程度が一番いいのかも知れなかった。

「何?」
提出用らしいレポートに目を通していたが目を向ける。どれだけ忙しくてもは誰かと話をする時、必ず相手の目を見る。最初はそれが鬱陶しくてたまらなかったのに、今じゃそれがないとたまらなく不安になる。
どれだけ、貴方の色に、染まれば、イインデスカ。
穢れた血液の色が、貴方の純白の色に、染まれば、きっと……。
「有給取れたらさー、二人でコスタ・デル・ソルに旅行でも行かないか、と」
「いいわよ」
にっこりとが微笑む。
こんな時、は大抵拒まない。いつ命を失くしてもおかしくない生活を続けていくのに必要なのは精神的な安らぎ。だから、それが例えどんな下らない事でもは拒んだりしない。
「私も遠くに行きたかったしね…!ちょうどいいもの、二週間くらい休み貰ってゆっくりしましょ」
「サンセーだぞ、と」
二週間休みを貰っても、全部休める訳じゃない。緊急出勤させらたり、出先で事件が起きてタークスとしての力が必要だと上が認識すれば、休みだろうと何だろうと関係なく働かされる。だけど、それでも。
タークスを辞める気にはなれない。
両手についた、赤い血はもう普通の生活には戻れない刻印。
一生、このままタークスに縛られて生きていく日々。誰かに必要とされ、誰かに必要とされたまま死んでいけるのなら、本望。
自己犠牲だと呼ばれようと、
例え、自分が殺した人の家族に陰で罵られようと。
……そんなもの、全然気にならなくなっちゃったね……。
本当に怖いのは、隣に居てくれる人を失う事。その人を失ったら自分は、きっと、壊れてしまうから。
。貴方を失う事がこんなにも怖いなんて、あの頃の俺は思いもしなかったんだぞ、と。
ただ、静かに。
レノはを抱き締めた。

END