狂詩曲〜rhapsody〜


…rhapsody…
 一九世紀にヨーロッパで数多く作曲された自由で幻想的な楽曲

(何がいけないのよ……)
音楽室から楽譜を持ってとぼとぼと夕暮れの廊下を歩く。
(技術的に問題がないならいいじゃない。狂詩曲なんて誰が弾いてもあんなものでしょ。プロじゃないんだもん)
教師の言葉が頭の中にリピートされる。

『技術的には問題ないのよね。…でもこのラプソディは恋の曲なのよ。今のさんには感情が足りないのよね。
前までは凄く綺麗に弾けてたのに…何かあったの?』

(訳判らない。私の事、何も知らないくせに)
小さくは呟いて窓からグラウンドを見つめる。誰も居ないグラウンドに夕陽が差し込んでいて、とても綺麗。
こういうイメージの曲なら直ぐにでも弾けると思う。…きっと。
一年前、中二の時、は失恋した。それまではこういうスローテンポなラプソディはにとって十八番だった。
いきなり弾けなくなった。恋をイメージさせる曲調。それはクラシックだろうが、流行の曲だろうが、関係なく鍵盤に向かうと指が震えた。それでも一年で『技術的には』問題ないくらいに復活できたのだから、にとっては大きな進歩だといえるだろう。
失恋を切欠にピアノ教室を休み始め、学校で選択した授業のみでピアノを弾いてきた。
「なーんで、よりによって試験項目が狂詩曲なのよ!!!」
ガンッと思わずゴミ箱を蹴る。しっかりと廊下の床に固定されているゴミ箱は僅かな反響音を残してそこにしっかりと居残る。
「ワオ」
聞き慣れない声にはゆっくりと振り返った。
学ランを羽織り、腕には風紀の腕章をつけた風紀委員長が居た。
「学校の備品を蹴り飛ばすって、ある意味、僕に対する挑戦?」
「雲雀…さん?」
には目もくれず、ちらりとゴミ箱を見やって「何?」と呟いた。
「僕を知ってるんだ」
「……風紀委員長のくせに最強の不良って有名ですし」
ひゅっ、と風が切り裂く音がした。
顎の下に、ぴたり、とつくトンファの切っ先。
「その怯えた顔、凄いそそる」
ごくり、と喉が鳴る。
手が震えて持っていた楽譜が音を立てて廊下に散らばっていった。
「君の?」
トンファを離して足元に落ちた一枚の楽譜を取り上げると興味深そうに楽譜を目で追っていた。
「……興味、あるんですか?」
す、と手を伸ばしてその楽譜を受け取ろうとする。
一枚、また一枚と拾っていく姿は今しがた本人を初めて見たばかりのでさえ、ドキドキとした。
「あの、楽譜」
その楽譜を持って(いつの間にかトンファはしまわれていて)目の前の雲雀はにこりと笑った。
夕暮れにその微笑が凄い映えて、思わずは息を飲む。
「ねえ、弾いてみせてよ」


そして。
(…何で私はまた音楽室に戻ってきてるんだろ……)
さっきまでここに居た生徒は雲雀を見て逃げ出した。
「あのね、雲雀さん。私、このラプソディは弾けないんです」
ぽーん、と高いドの鍵盤を人差し指で弾く。
「これだけ楽譜に書き込んでるのに?」
譜面台に乗せた楽譜を指差す雲雀の指には思わず魅入っていた。
流れるように書き込まれたものをなぞる指。
「弾けないから書き込むんです」
まだぽーん、ぽーんと音を響かせる。
「じゃあ、何なら弾けるの?」
「え?」
「さっき、『この』って言ったよね。って事は、ほかの曲なら弾けるんでしょ?違うの?」
少々むっとした顔をしては曲を奏で始める。
落ち着いた曲ではなく、多少激しいその曲を奏で終わり、は深く息をしながら鍵盤から指を離した。
窓枠に寄りかかりながら聴いていた雲雀は、小さく鼻で笑った。
「今鼻で笑ったでしょ…」
「上手だな、とは思うよ。僕はこの手のものには詳しくないからわからないけど。でも」
鍵のかかっていなかった窓を開けて、雲雀は口許だけで笑う。
「何で苦しそうに弾くのさ」
息が詰まった。
あの先生だってそこまで見抜きはしなかった。先生だけじゃない。誰も彼も気付かなかったことを、何故、彼はわかるのだろう。
「それは!」
「去年はもっと楽しそうに弾いてたよね」
窓枠から離れて座っているの後ろから鍵盤を弾く。
「いきなり、君はココで弾かなくなった」
ポーン、と奏でられる鍵盤。
「応接室はこの並びだからね。……楽しみにしてた。
名前も知らない子が弾いてる曲を聴くのがだよ?この僕が」
「弾かなくなったんじゃないです。弾けなくなったんです」
雲雀相手に何を言っているんだろうか、とは小さく思う。
実際口に出しては言わない。
「失恋したんです」
何もないように、は言葉を紡ぐ。
「失恋したらいきなり弾けなくなりました。一年間付き合ってていきなり、フラれたんです」
別れた理由は何だっただろう。
もうそれすらも思い出せない。
「そんな奴、忘れてしまえばいい」
開けっ放しの窓から突風が舞い込み、譜面台においておいた楽譜が音を立てて宙を舞った。
「僕を好きになればいい」
楽譜を追いかけようと立ち上がったの身体を後ろから抱き締める。
胸の下に回された手が制服越しに熱いのが判って、真っ赤な顔をは隠せずにいた。
「……僕は捨てたりしないよ?」
…捨てた。
ああ、そうか。そういう言い方もあるんだ。
抱き締められた状態では何故かふっとそんな事を思っていた。
「Yesって言うまで、離してなんてあげないから」
軽く触れるだけのキスが、余計にの顔を赤くした。


「スランプだったのね、さん」
音楽のテストで課題曲を弾き終わったに教師は拍手しながら言う。
「切欠を貰っただけです」
授業終了のチャイムと同時に開かれた音楽室のドアの先につまらなさそうに立っていた雲雀を一瞥して、はピアノから離れる。
「また授業サボったでしょ、雲雀」
があの譜面の曲弾くって知ったら授業出てる場合じゃないからね」
どうしても聴きたかったんだよ。
そう雲雀は言っての耳元に唇を寄せる。
「完全に僕のものになったって感じがするからね」
完全に敗北。
小さくそう呟いて、は微かに笑った。

FIN